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1887年以前 - トリンギット族の言葉で風の強い場所という意味のスキャグアSkaguaはチルクート族とチルカット族が狩猟や漁場として利用していました。先住民の中には他のもっと静かなスマグラー入江やナク湾、チルクート・トレイルの先にあるダイイへ定住した者もいました。何百年も昔からインディアンの交易のルートであったチルクート・トレイルはユーコンを目指した初期の探鉱者によって有名になります。この地域は1880年代に、アメリカ海軍と陸軍がパトロール隊を駐屯させた場所でもありました。
1887年 - 6月、ダイイからタギッシュまでの荷物運びを仕事としていたトリンギット族のスコークン・ジムはカナダのオギルヴィー調査隊のメンバー、キャプテン・ウィリアム・ムーアの案内役としてスキャグア・リバーの峡谷を通りました。そこは後にカナダ内務省によりホワイト・パスと名付けられます。10月にムーアは息子のバーナードの元へと戻ります。二人は峡谷の160エーカーに対する所有権を主張します。そして、埠頭で働き始めました。彼らはその場所をムーアーズビルと呼びました。
1894‐1895年 ‐ 北西騎馬警察隊は地域での存在を示す目的でユーコンに向かいますが、その途中スキャグウェイとダイイに立ち寄ります。初期の探鉱者たちはムーアが通った当時と同様の自然のままのホワイト・パス・トレイルを歩いていきました。
1896年 ‐ 8月17日、ラビットクリーク、後にボナンザと呼ばれる場所で、スコークン・ジム、W.・カーマックとドーソン・チャーリーが初めて金を発見します。ラビットクリークはクロンダイク・リバーの支流で、スキャグウェイから600マイル(960キロ)離れた場所にありました。
1897年 ‐ 7月14日、ムーアはトレイルを開放します。有名な「1トンの金」を積んだ蒸気船、エクセルサー号とポートランド号がサンフランシスコとシアトルに到着する少し前のことでした。それはクロンダイクのゴールドラッシュ時代の幕開けとなりました。7月29日、蒸気船クイーンがムーアの埠頭に到着します。何百人という金を求める人たちを乗せた最初の船でした。ムーアは大忙しでした。ムーアーズビルは検査官のフランク・レイドによってスキャグエイSkaguayという名前で再区分されました。その年の秋以降には郵便局、最初の教会(合同教会)ができ、新聞(スキャグエイSkaguay ・ニュース)が発行されました。荷物運搬用の動物の多くが過酷なホワイト・パスで命を落としたことで、ホワイト・パスは「死に馬のトレイル」と呼ばれました。ジョージ・ブラケットは峡谷の15マイル先にあるテント設営地、ホワイト・パス・シティまでの有料道路を作りました。カナダ政府はスキャグウェイを含めた地域を領土だと主張し、カナダ騎馬警察はホワイト・パスの道の警護をし始めるようになりました。そして間もなくスキャグウェイには駐屯地が置かれました。
1898年 ‐ スキャグウェイの人口は8千人から1万人に膨れ上がりました。デイリー・アラスカ新聞が発行され、商工会議所とボランティアの消防署ができました。ブラケットが作った道の通行権を買いとるため、ロンドンの投資銀行クローズ・ブラザースにより資金確保の取り決めがなされた後の5月にはホワイト・パス&ユーコン鉄道の建設が開始されました。非公式ではありますが、市政府が形成され、ブロードウェイに線路を通すことが許可されました。6月には最初の学校がユニオン教会に開校します。ソーピー・スミスによる数々の犯罪が町にはびこりました。7月8日、フランク・レイドと怒った群衆によってソーピーは殺されます。それはスキャグウェイの独立記念の祝典でジョン・ブラディー市長と彼が演壇に立った4日後のことでした。アメリカ陸軍はダイイに駐屯し、町の秩序が回復しました。レイドはソーピーとの争いがもとで受けた傷がもとで亡くなりますが、町の英雄として郊外の墓地に埋葬されました。スキャグウェイSkagwayという綴りの変更は郵便局によってなされ、ほとんどの商売人はいやいやその変更に応じたという話です。町に住む人たちはスキャグウェイアンと呼ばれました。
1899年 ‐ 市では2つの新聞が別に発行されました。デイリー・バジェットとアラスカ・トラベラーズ・ガイドです。鉄道の請負業者のマイク・ヘンリーたちは鉄道を2月に山の頂上まで、7月にはレイク・ベネットまで延ばしました。スキャグウェイの建設ラッシュは市内にも起こり、キャプテン・ムーアが提供した土地にはアークティック・ブラザーフッッド・ホールやマカービー・カレッジなど素晴らしい建物が次々と建てられました。彼は近くに名所となる自分の家も建てました。建物の中には衰退しつつあるダイイから運ばれたものもありました。学校は11番街の新しいビルに移されました。一方で市は5月の火災で7つのビルが崩壊するなど火事には手を焼いており、山火事でダイイ近くの陸軍駐屯地も壊滅状態となりました。軍隊のほとんどはスペインとアメリカの戦争の退役黒人兵からなる部隊でしたが、その軍隊もスキャグウェイへと移されました。
1900年 ‐ スキャグウェイで人口調査が行われました。その結果、住民の数は3,117名でした。6月28日、スキャグウェイは土地の所有者たちの投票により246-60でアラスカ初の正式な市となりました。ジュノーもしのぐ勢いでした。7月29日、スキャグウェイ・ホワイトホース間にホワイト・パス&ユーコン鉄道が開通し、ユーコンのカークロスで記念行事が開かれました。華美なホワイト・パス&ユーコン鉄道会社のビルが2番街とブロードウェイにある鉄道駅の隣に完成しました。鉄道会社は病院も建設しました。
1901‐1902年 ‐ マカービー・カレッジが閉鎖され、建物は連邦政府に売却され裁判所となりました。H・D・クラーク農場が川の対岸に作られました。チャーリー・ウォーカーがポートランドの展示会用に野菜を送ります。ムーアの土地の所有権の主張が受け入れられ、160エーカーの内の60エーカーと補償金を獲得しました。ハリエット・プーレンはムーアから借りていた家をその後購入し、プーレン・ハウスというホテルをオープンさせました。ハーマン・カーミセは1902年に初めて庭園ショーを開催しました。9月14日、ある男が5番街のカナダ銀行に押し入りますが、爆発で現金と砂金とともに自分自身も吹き飛ばされてしまいました。その後一部は道路の採掘工事で見つかりましたが、犯人の男は発見されることはありませんでした。この泥棒の頭蓋骨は最終的には歯医者であるL・S・ケラーのもとに届けられました。軍隊はヘインズ近くのフォート・スワードで活動を開始しますが、1904年、最終的にはそこに隊が移されました。
1903‐1905年 ‐ 山道の頂上を国境とするということで、国境についての論争が1903年についに終結しました。スキャグウェイ・ニュースは1904年に廃刊、デイリー・アラスカ新聞を残すのみとなりました。14歳のボビー・シェルダンが1905年7月4日のパレードのためにアラスカで初めての自動車を作りました。彼は後に最初の車を運転し、バルディーズからフェアバンクスまでアラスカ発のハイウェイを走ります。このスキャグウェイの車はアラスカ大学博物館に飾られることになります。12月にはスキャグウェイから最終的にバルディーズまでつながる道の建設についての会合がスキャグウェイで開かれました。
1908‐1910年 ‐ 鉄道を中心とした商業地域をもっと発展させるため、多くのビルが他の地域からブロードウェイ通りへと移ってきました。移ってきたビルの中にはレッド・オニオン・サロンやデッドマン家所有のゴールデン・ノース・ホテルなどがありました。デッドマン一家は後にE・A・ヘッグの写真店も引き継ぐことになります。
1912‐1913年 ‐ ローワー・デューイ・レイクの上流の丘の中腹で起こった山火事で、森の中に建てられていたP・E・カーンのお城が燃えてしまいました。人気の高い司令官であり、また金物店のオーナーでもあったJ・M・シー・タナーが1913年、アラスカで最初の地方議会に選出されました。
1914年 ‐ アラスカ道路委員会のリチャードソン少佐は川の西端の4マイル(6キロ)の未舗装道路を承認しました。ハーマン・オルソンとチャーリー・ナイとそのスタッフたちはロック・ウォールまでの4分の1マイルを獲得しました。
1915‐1917年 ‐ アラスカ女性禁酒同盟はスキャグウェイで会合を持ち、アラスカ・ボーン・ドライ法令の草案を書きました。議会は後にこの草案を使い、国としての禁止運動の流れへと導いていくことになります。マーチン・イトジェンは最初のスキャグウェイ・ハック、つまり、タクシーと石炭運びのトラックを兼ねた商売を始めました。彼のビジネスは後に発展してスキャグウェイ・ストリート・カー・カンパニーとなります。イトジェンはソーピーの店を手に入れて、博物館にします。彼の素晴らしい所蔵品のひとつに銀行泥棒の骸骨があります。それはアラスカに来たばかりの人から譲り受け、ドクター・ケラーが手に入れたものでした。ケラーは「ガーデンシティ・オブ・アラスカ」という用語を新しく作りだしました。1916年に新しい銀行、バンク・オブ・アメリカがオープンします。それは銀行の支店のさきがけとなり、ラスムソン家により、アラスカで一番大きな銀行へと発展しました。イトジェンの友人であるジョージ・ラプッツィはそこで、彼自身が飼っていた犬が好んでウサギを追いまわした川の向こう岸にペット用の墓地を建設しました。
1918年 ‐ サロンが閉店します。10月23日汽船プリンセス・ソフィアは343人を乗せてスキャグウェイを出港します。その晩、船はジュノー近くのバンダービルト岩礁で激しい雪嵐に行く手を阻まれます。船長は潮の流れにのり、いちかばちか岩礁を通りぬけようとしました。しかし、小型ボートでも救出ができないくらいの悪天候が2日続いた後、船はバラバラに壊れ、乗船者全員が犠牲となりました。新婚旅行で初めてマッキンリー山を探検したウォールター・ハーパーなど犠牲になった人たちのほとんどはユーコンをそれまで引っ張ってきた人たちでした。
1920‐1922年 ‐ スキャグウェイ女性クラブが組織され、1921年、スキャグウェイ図書館が建てられました。飛行機がはじめて浜に着陸しました。スティース大佐がスキャグウェイ市民と面会し、山頂までの1区間の道路建設に9万5千ドルの予算が確保されました。そのうちの5千ドルは調査に使われましたが、残りの金額は使われませんでした。
1923年 ‐ ウォーレン・G・ハーディング大統領は1923年7月にスキャグウェイの海軍船を訪ねます。大統領はプーレン・ハウスにて演説を行います。そして、彼がアークティック・ブラザーフッドに入った最後の大統領となりました。アルパイン・クラブのメンバーだったジョージ・ラプッツィはスキャグウェイの反対側の山の頂上から大統領一行に鏡に光を反射させて合図を送りました。ハーディング大統領はアラスカから戻って間も亡くなりました。その山は彼の名にちなみ、ハーディング山と名付けられています。デイリー・アラスカ新聞は発行人であるケラー氏の死とともに休刊となりました。
1924‐1930年 ‐ ホワイト・パス&ユーコン鉄道とイトジェンとプーレンの目に見える活動が功を奏し、最初の旅行ブームが起こりました。客船が36時間停泊することにより、観光客は鉄道に乗ったり、カークロスから美しいベンマイクリーまでの汽船ツアーを楽しむことができました。ホッケークラブの資金調達のために町の人たちはホワイト・パス・アスレチック・クラブで旅行者向けに数々のショーを開催しました。それは後にザ・デイズ・オブ・98・ショーとして知られるようになり、アスレチック・クラブが世界大恐慌時代に閉鎖になってからはイーグルスへと移って行きました。
1931年 ‐ スキャグウェイにピウスX教会が建てられました。この教会は30年もの間アラスカ全土の先住民の子供のための学校を運営し、皆からも愛されていたG・エドガー・ギャラント神父によって建てられました。
1933‐1934年 ‐ スキャグウェイのゴールドラッシュ国立公園構想が初めて商工会議所によって進められました。グレーシャーベイ・国立モニュメントに含めるという案は棚上げされました。禁酒法が廃止されました。
1935年 ‐ マーチン・イトジェンはハリウッドの若手セクシー女優であるマエ・ウエストに何度も交渉を重ね、スキャグウェイの「カム・アップ・アンド・シー・ミーサムシング」ショーの出演承諾を得ました。アメリカ新聞学会一行が船で到着、スキャグウェイでの第一回会議を催しました。
1937年 ‐ ホワイト・パスの円形機関車庫が火事で燃えました。
1939年 ‐ 女性クラブが地域から2万5千ドル、連邦事業促進機関から2万4500ドルの資金調達をし、新しい学校を建設しました。1940年にステート通りと11番街の角にある古い校舎の後ろに建てられました。
1942年 ‐ アルカン・ハイウェイの建設資材を運ぶ主要ルートとして鉄道が使われていたこともあり、スキャグウェイは文字通りアメリカ陸軍に占領されていました。ブロードウェイ通りにはトラックが何台も通り、日に20もの列車が山道を上がって行きました。その後の3年間は3000人の軍隊がスキャグウェイに駐屯します。空き地にはクォンセット(かまぼこ型の兵舎)が建てられました。燃料輸送のためのパイプラインが線路に沿って作られました。
1943‐1944年 ‐ 軍隊が消防署の役割を引き継ぎ、24時間体制で活動を開始します。しかし、大火事が起き、凝った装飾が美しいエルクス・ロッジやプーレン・ハウス、そしてミッションスクールなどがすべて燃えてしまいます。軍隊が地域に貢献したことと言えば1943年、1944年両年にスキャグウェイリバーの水位が上がった時でしょう。この時軍隊の助けによる堤防造りがなかったなら、市は壊滅していたでしょう。
1945年 ‐ 軍隊がスキャグウェイから撤退後、アメリカ保険福祉省が川の対岸の軍病院に結核療養所を開きます。ブリティッシュ・コロンビア州、ビクトリアにある聖アン教会から看護婦が派遣されました。1947年に閉院になるまで90人の患者を診療しました。
1946‐1950年 ‐ ホワイト・パス&ユーコン鉄道の運営が再び開始され、燃料運搬を請け負いました。ダイイ・ロードがアラスカ道路委員会によって建設されました。観光のパイオニアであるイトジェンとプーレンがこの世を去りました。プーレン・ハウスはついに閉鎖、ラプッツィはソーピーがいた場所でイトジェンの夢を引き継ぎました。
1951年 ‐ ホワイト・パス社はコンテナ貨物を使う海運業で草分け的な存在となりました。バンクーバーの埠頭でクリフォード・J・ロジャーズ号に荷物を積み、スキャグウェイまで運び、その後鉄道に載せ、ホワイトホースまで運んだのです。
1952年 ‐ アメリカ・アルミニウム会社(ALCOA)が巨大なタイイ・プロジェクトに触発され、ダイイに4百万ドルをかけたアルミニウム精錬所建設計画を発表します。ホワイトホースにダムを作り、ユーコン川の流れを逆流させ、ユーコン川流域の複数の湖の水を2つのトンネルを通して古いチルクート・トレイルまで下ろして精錬所を稼働させる計画でした。このプラントを支えていくには「マイティ・シティ・オブ・20000」計画が必要でした。それは2万エーカーの土地が必要だということでした。ジュノー・エンパイアーがスキャグウェイ・アラスカ新聞という週刊の新聞を発行しました。町の人たちはスキャグウェイトと呼ばれていました。
1953年 ‐ 7月にはタイヤ川の氾濫でダイイに住んでいたビル・マチューの家が押し流され、ウエストクリーク沿いの小屋は消滅しました。女性クラブはハーベスト・フェアのスポンサーになりました。鉄道作業員たちが12日間のストライキをし、14セントの賃上げを勝ち取りました。ALCOAは、タイイ・プロジェクトによって作られる安い電力を手に入れようとカナダ側を説得しようとしましたが、失敗に終わりました。会社は代替の場所をタクで探し、スチュワートB・C新聞はカークロスまでの道路建設に力を入れました。ユーコンは後にダムを建設することとなります。
1954‐1955年 ‐ 鉄道は136のフラットヘッド・エンジンと71の有蓋車に加え、初めてディーゼル・エンジンを2基導入しました。埠頭の北端部分は30トンの鉛と亜鉛の濃縮物の重みでつぶされてしまいました。スキャグウェイ・アラスカ新聞はヘインズ・ヘラルド新聞と合併し、リン・キャナル週刊新聞となりました。学校の増設が26万5千ドルで入札されました。アラスカ道路委員会がカークロス・ロードをブラック・レイクまで4分の1マイル(400メートル)延長することを承認しました。しかし、この延長工事は、カークロスから国境までの道路建設をカナダ側が援助するまでは実行されませんでした。
1956‐1960年 ‐ スキャグウェイ市は1956年連邦政府からマカービー・ビルを買い取り、市役所としました。ALCOAが1957年に正式に精錬所計画を中止しました。アラスカは1959年にアメリカ合衆国の州となり、州とスキャグウェイはそれを祝いました。モーガン・リードは4期就任中1期目に、州議会に選出されました。その年、モンシニョール・ギャラント司教はアンカレジに転属となり、主導者をなくした教会学校は1960年に閉鎖されました。
1961‐1962年 ‐ ブラック・レイクの先の切り立った岩に「最新の基準」でもう1マイル道路が建設されました。マカービー・ビルの2階が新しいトレイル・オブ・98・博物館となり、スキャグウェイの住民から様々な民芸品が寄贈されました。新しく州となったアラスカ州が興味を示したことからスキャグウェイの国立公園構想が再び持ちあがりました。州はリクリエーション目的の開発場所としてダイイ峡谷を選びました。サイ・コーンは月刊ノース・ウィンドを発行しました。
1963‐1966年 ‐ アラスカ州営フェリー(アラスカ・マリン・ハイウェイ)がはじめて到着。下院議員のリードは上院議員のエルトン・エングストームと協力し、州のランパート・ダム計画が実行されない場合には、ユーコン・タイヤ委員会を組織し、タイイ・プロジェクトを再開するという法案を通しました。
1968年必要なエネルギーについての調査が行われました。商工会議所がクリーン・スウィープ(大掃除)を組織しました。
1967年 ‐ スキャグウェイリバーが氾濫。堤防が決壊し、プーレン・クリーク暗渠が決壊し流されました。ウォーリー・ヒッケル知事は飛行機で被害を視察しました。
1968‐1969年 ‐ ユーコンのファロ近くのサイプラス・アンビル鉱山に対する計画が発表され、それに合わせてホワイト・パス社は大量の鉛と亜鉛を輸送するために線路や設備を改良させました。会社は市議会を説得して、新しい鉱石用ターミナルと埠頭として利用するため、干潟を55年間リースすることにしました。1969年、ホワイト・パスの円形機関車庫がまた燃えました。
1970‐1972年 ‐ 道路保護が国境の両側で設立されました。カナダ側はカークロスに新しい橋を建設し、ビーナス鉱山の稼働にともない、1971年ブリティッシュ・コロンビアとユーコンの州境まで道路を延長しました。1972年2月にはカナダはアラスカとの国境までの残り33.6マイル(54キロ)の道路を建設することに同意し、一方のアラスカ側はアラスカ側の9.4マイル(15キロ)を建設することになりました。サウス・クロンダイク・ハイウェイと呼ばれる道路です。公園の基本計画が作られます。ホワイト・パス社は古い駅舎を国立公園基金に寄付します。ユーコン・タイヤ委員会は解散となりました。
1973年 - ホワイト・パスはフェデラル・インダストリー社に売却されました。アラスカ議会がクロンダイク・ゴールドラッシュ国立歴史公園設立のための最初の法案を提出しました。最終的な道路測量が終了しました。グレーシャーベイの管轄のもと、チルクート・トレイルに初めて季節パークレンジャーが登場しました。
1974年 - シアトルの中央建設に1090万ドルの契約が落札しました。この会社はアラスカの先住民が新しく作った会社の関連で、クロンダイク・ハイウェイのアラスカ側の建設をすることになりました。カナダ側の建設工事は2社が請け負うことになりました。ツシ・リバーまでの16マイル分については、ブリティッシュ・コロンビア州のプリンス・ジョージのベン・ジンターが、国境までの20マイル分については、ホワイトホースのジェネラル・エンタープライズが受け持ちました。建設終了までには3年かかる予定でした。
1976年-1977年 - 国立公園法案は1976年6月に議会を通過し、スキャグウェイに管理局と歴史建築家がやってきました。仮のビジターセンターが旧鉄道駅にオープンし、公園は1977年6月に開園しました。公園はスキャグウェイ地区、ダイイとチルクート地区、ホワイト・パス地区、そしてシアトル・パイオニア・スクエア地区の4つの場所から構成されました。スキャグウェイ市には歴史地区委員会が設立しました。
1978年 - 月刊ノース・ウィンド誌が廃刊となった後にモダン・スキャグウェイ・ニュースが発行されました。タイヤ・リバーの氾濫で、ダイイにある先住民墓地が壊滅状態となりました。モダン・スキャグウェイ・ニュースがはじめて取り上げたニュースは、その墓地跡が国立公園局によってスライド墓地近くの地域へ移されることについて賛否が問われているという記事でした。クロンダイク・ハイウェイは9月、ついに国境でつながりました。ジョン・エドワードとボブ・ビッセルがけん引してもらいはじめてそこを渡りました。未舗装道路が冬に閉鎖になるまで地元の人たちが利用できる道が完成したのです。
1979年 - 複数の新聞が合併してヘインズ・ペーパーという新聞が発行されるようになります。春、クロンダイク・ハイウェイが正式に開通しました。最終的な建設費用はアメリカ側で1440万ドル、カナダ側で1220万ドルでした。7月には火事でサワードー・イン、イグルー・バーと洋服屋が燃えましたが、消防活動により歴史地区にまで火が及ぶことはありませんでした。新しく市営の荷船設備とフェリーターミナルが完成しました。
1980年-1981年 - 州の援助でKHNS局の公営ラジオと衛星生放送テレビが開設されました。線路の橋が崖崩れで壊れたため、一時的にトラックがハイウェイを利用して物資の運搬をしました。土地所有者と国立インホルダー協会からの反対にあい、公園局はダイイの建築規制条例の実行を断念しました。スキャグウェイはディズニー映画「ネバー・クライ・ウルフ」の舞台となり、ホワイト・パスに撮影班がやってきました。この映画に関わった作家ケン・ケシーは後に映画スタッフによって占拠されたアラスカの町ということで「セイラー・ソング」という小説を書きました。捨てられた豚とビガー。ハマー・マーチングバンドのことがその10年後に本に書かれました。スキャグウェイ市は観光をプロモーションするために局長を雇いました。ブロ・クリークとスキャグウェイ・スクールに魚卵の孵化場を作りました。
1982年 - ファロ鉱山は春に閉鎖され、鉄道は貨物輸送の収入の70パーセントを失いました。それでもホワイト・パス・蒸気エンジンNo.73は復活を果たしました。夏にスキャグウェイ・ニュースが月2回発行に戻りました。楽観視されていたホワイト・パス鉄道運営でしたが、秋になると深刻となり、10月8日には鉄道は営業停止となりました。このことでスキャグウェイは激しい不況状況に陥ることになりました。会社側がヘインズ・ハイウェイを使ってユーコンまでトラック輸送を試みると、組合はヘインズでピケを張り、会社の試みを止めようとしました。
1983年-1985年 - ホワイト・パスは夏の運行も含めた営業の停止を発表しました。冬の失業率は70-80パーセントとなりました。新聞の発行は冬から月1回となりました。クロンダイク・ロードのリレーがはじめて開催されました。原油で豊かになったアラスカ州から8.5百万円の援助を受け、スキャグウェイに新しい学校が建設されました。スキャグウェイはアラスカ・ビジターズ協会の会議に参加し、クルーズ船の接岸を100隻以上増やすことを目指します。歴史ある埠頭を活用しようとする試みは、市、州とホワイト・パス社の間で合意され、クルーズ船を増やすために埠頭施設が改善されることになりました。公園の初めての復旧工事であった古い鉄道駅舎と事務所の改修工事が終わり、公園のビジターセンターと事務所がオープンしました。ブロードウェイ通りは「歴史道」とされ、ゴミが一掃されました。ガーデン・クラブはコンテストを発案し、オーダー・オブ・イースタン・スターという花と庭園に関するショーが開催されました。有権者はダイイ・ロード沿いの土地と丘の斜面の家屋の売却を認めました。観光客の数は20万人を上回りました。
1986-1987年 - キュラフ社がアンビル鉱山を購入し、スキャグウェイまでの輸送をトラックに集約する方針を発表しました。ビル・フェロ市長は1986年2月に市議会を解散し、市は州に対しハイウェイを年間通じてオープンさせる要求をします。ビル・シェフィールド知事とユーコン政府のリーダーであったトニー・ペニケットは4月、歴史的な同意書にサインをかわします。トラック輸送が6月にリンデン社により始められました。ホワイト・パスはコンテナ船を再導入し、トラック輸送業に参入します。クルーズ船の数は200を超えました。公園は1986年から1987年にかけてもう2つのビルの改修工事を終え、それを民間企業に貸し出します。市は1987年に100周年委員会を発足させ、公園は100周年を記念してムーア・キャビンの復元工事を終了させました。冬のイベントであるウィンドフェストで第1回バックウィート・スキー・クラシックが開催されました。鉄道を買い取りたいという人が現われ、鉄道は観光目的で発展させていくことになりました。スキャグウェイの小さなクロスカントリーチームがはじめて州のタイトルを勝ち取ります。リンデン社の鉱石用ターミナルでストライキ中の労働者が他の労働者に置き換えられたことでウォーターフロント地域の緊張が高まります。ストライキ中の労働者は労働組合の結成に失敗し、新年にピケラインも放棄することになりました。
1988年 - 3月1日、ホワイト・パスの社長、マービン・テイラーと労働組合との合意が成立し、鉄道営業の再開を発表します。それは、夏の期間、観光客向けとして山の頂上までの3時間の往復運行をするというものでした。町中に汽笛の音が鳴り響き、従業員が戻ってきました。5月12日、最初の列車が盛大な歓声に見送られながら出発しました。新聞が1か月に2回、通年発行に戻されました。アラスカ州ガーデン・クラブはスキャグウェイで年次総会を開催し、スティーブ・クーパー知事により、スキャグウェイが「アラスカのガーデン・シティ」だと公言されました。これまでの鉱石の輸送によりスキャグウェイで高濃度の鉛が観測され、その年は不安のうちに終わりました。州の公衆衛生当局により学生が検査を受けた結果、血中濃度は標準よりも低いことがわかりましたが、町の清掃除去処理がおこなわれることになりました。
1989年-1990年 - キュラフ社とホワイト・パス社が出資し、6百万ドルという巨額の予算を投じて、ウォーターフロントから、鉄道、ハイウェイなど町中の清掃除去処理が行われました。ウォーターフロント地域で争いがおこりました。ホワイト・パス社がフェリーターミナルのブロードウェイ埠頭の西での計画を提案し、キュラフ社が市を説得して、新しい鉱石用埠頭とフェリーターミナルの東の土地を賃貸しようとしたからです。市はホワイト・パス社のプロジェクトを許可し、キュラフ社のプロジェクトは有権者にゆだねられました。キュラフ社は地域住民に意見調査を行いましたが、ほとんど支持が得られなかったため、選挙は中止となりました。市の干潟にある現在の鉱石用ターミナル、これはホワイト・パス社が借り上げているものですが、それを改善することでキュラフ社とホワイト・パス社の2社が力を合わせ始めました。許可するかどうかについて、再び有権者に問われた結果、州のアラスカ工業輸出局(AIDEA)から賃貸することが許可されました。ホワイト・パス社はターミナルをAIDEAに売却することを発表し、議会から売却と改修のための予算2千5百万ドルの承認を取りました。ブロードウェイ埠頭は1990年にオープンしました。船は風に対処するために苦労し、鉱石用埠頭が被害を受けます。川が洪水レベルにまで水位が上昇、洪水に関するコントロールにはより一層力が入れられることになりました。かつてのプーレン・ハウス跡は長い間放置されて崩壊の危険があったため取り壊されました。学校内のプーレン・クリーク孵化場のプログラムが国の職業教育賞を受賞しました。
1991年-1992年 - 鉱石用ターミナルはユーコンにおけるキュラフ社のストライキの間も営業しました。アイランド・プリンセス号とリージェント・シー号が港に入る途中の湾内で衝突しますが、奇跡的に重傷の負傷者はいませんでした。船は修理され、その夏に戻って行きました。港の新しいルールができます。船は1時間の間隔をおいて入港するというものでした。市は1991年9月に非常事態洪水コントロールを発令、州内の注目を集めました。アラスカ・ハイウェイ建設後50周年になる1992年に観光客の数が30万人を超えました。戦争をテーマにしたAVA会議が開かれるなど、この夏にはいろいろな再会行事が開かれました。
1993年-1994年 - ユーコン政府は会社存続のため、キュラフ社に2千9百万ドルの貸し付けをしましたが、同社は会社更生法、チャプター・イレブンの申請をし、ターミナルは閉鎖されました。市は鉱山があるなしにかかわらず、冬の期間にハイウェイを運営するための資金づくりを進めたところ、州と地域のリーダーの保障を得ることができました。映画の題材に取り上げられたいい年でした。春にはテレビ番組の「デュー・サウス」、そして1993年秋には映画「スノーバウンド:ジムとジェニファーのストルパ・ストーリー」に取り上げられました。1994年春にハイウェイを通りユーコンからスキャグウェイまで丸太が輸送されました。ヘインズの会社から分離してやってきたメンバーが市の承認を得て、スキャグウェイ・メディカル社を設立します。クリニックはジュノーにあるバーレット病院に加盟しました。5月に「グッドモーニング・アメリカ」がやってきました。ホワイト・パス社が埠頭まで線路を延ばす拡張、改修、延長計画を発表しますが、パイプラインから燃料が流出する事件に3回も見回れます。最後の流出は10月に起こりましたが、二人の会社役員が連邦政府に摘発されることにまでになりました。会社はパイプラインを閉鎖し、燃料ビジネスを売却します。1ヶ月後、もっと悪い災難がホワイト・パス社を襲います。湾が高潮に襲われ、埠頭が壊れ、埠頭そのものが根こそぎ崩壊、ブロードウェイ埠頭にも被害が及びました。一人の作業員が崩壊で死亡します。ヒッケル知事により被害状況が報告されましたが、被害は州の埠頭や小さなボートハーバーにまでおよび、被害総額は1百ドルを超えるものでした。ホワイト・パス社は1995年のクルーズ船のシーズンまでに鉄道用の埠頭を再建することを明言します。
1995年-1996年 - 新しくなったアンビル・レンジ社がファロ鉱山を購入しました。5月30日、初めてのクルーズ船が新しい鉄道用埠頭に接岸しました。新しいオペレーターやツアーがスキャグウェイやダイイにできたことでアドベンチャーツアーは熱狂的な人気を集めるようになりました。そして市は氷河に着陸するヘリコプターツアー催行も許可しました。有権者はツアーと輸送への増税に賛成しました。王室カナダ騎馬警察ミュージカル・ライドは騎馬警察誕生100周年を記念して、海岸でパフォーマンスを披露しました。313隻の船が訪れ、観光客の数は40万人を超えました。古い学校は10年間放置された後に取り壊されました。ただし、スポーツジムだけは将来的にレクリエーションセンターとして利用するために残されました。新しい国境検査場がハイウェイ沿いにオープンしました。秋になると、鉱石トラックがそして、船も戻ってきました。市では初めての女性市長、スー・プラマー市長が誕生しました。1996年には、1994年に起こった燃料流出事件に関与したとして、ホワイト・パスの職員が起訴され、裁判にかけられ、陪審員により有罪となりました。彼らは上訴し、一件は有罪が確定しましたが、残りは棄却されました。スキャグウェイでインターネットが接続できるようになりました。金属の価格の低迷でアンビル・レンジ社は操業を中止します。
1997年-1998年 - コミンコがアンビル・レンジ社の株式を購入しましたが、1997年4月に鉱山と鉱石用ターミナルは閉鎖されました。有権者はクロンダイク・ハイウェイに新しい焼却炉を建設する追加融資の支援策を承認します。鉱山が操業を再開したことにより、秋には鉱石用ターミナルも再オープンしましたが、アンビル・レンジ社が会社更生法を申請してクリスマスに閉鎖されるまでのことでした。しかし、その後2年間にわたって、市ではクロンダイク・ゴールドラッシュの100年記念祭が開催されました。「1トンの金」の再現、ダイイからドーソンまでのレース、スキャグウェイ百年記念像と公園の完成、クロンダイク国際歴史公園の落成式やクロンダイクの切手の発行などが行われました。新しい州のナンバープレートはゴールドラッシュのトレイルの図柄となりました。ホワイト・パス社も3年間に渡り、100周年を記念するイベントを行いました。会社はラッセル・メタル社(前フェデラル・インダストリー社)から分離独立し、トリ・ホワイト社の傘下に入りました。学校と会社もそれぞれ100歳の誕生日を祝い、アラスカ電気電話会社はゴート・レイクの水力発電のプロジェクトを終了させました。スキャグウェイは100パーセント水力発電でヘインズにも電力を供給しています。森林火災は地元と州の消防隊によって消し止められるまでにダイイの上方85エーカーを焼失し、チルクートにも被害が及ぶところでした。
市は公園局からダイイ・フラットの経営を引き継ぎます。州はジュノー・アクセス調査を公表します。それはリン運河の東側からスキャグウェイへと続くハイウェイを整備するか、もしくは毎日運行の高速フェリーによる海上輸送サービスを充実させるか、そのいずれかを市が援助するというものでした。スキャグウェイの意見は高速フェリーに傾き、一方でヘインズは新しい道路建設には断固反対、ジュノーでは意見が分かれました。
1999年-2000年- ホワイト・パス社と州が1994年に起きた埠頭の損害について起こしていた訴訟は、鉄道側が187万5千ドルを支払うことで和解しました。スキャグウェイは、450隻近くのクルーズ船が寄港する世界で16番目に人気のクルーズ船寄港地になりました。観光客が75万人に近づくと、市はその影響をきちんと考えるようになりました。警察、消防署/EMSと病院は職員を増員します。市は一社だけにサービスを提供することで繰り返し起こる争いに終止符を打ちました。その結果独立系のツアー・オペレーターは1社の仲介業者を使うことを義務づけられました。経済開発の責任者が雇われ、冬場の住人の生活の質の向上問題に取り組むことになりました。リクリエーションセンターの改良工事が終わり、責任者が着任し、センターの利用が拡大しました。空港の拡張工事が始まり、2001年に終了しました。世界中の他の国々や地域のようにスキャグウェイもミレニアム問題に遭遇しましたが、コンピューターには何の問題も起きませんでした。そして、世の中は携帯電話時代へと突入しました。民主党の知事トニー・ノウルズが2000年初めにジュノー・アクセス問題に関する決定をします。それは高速フェリーを援助するというものでしたが、共和党優位の議会を通してフェリー就航を推し進めるのは困難でした。ゴールドラッシュ以来このスキャグウェイにあったアラスカ・ナショナル銀行がウェルズ・ファーゴに売却されました。マカービーが市政100年で復元されましたが、100年前と同様建設工事が遅れました。そこで、市は内部に入れるようになる前の6月に屋外での大きな誕生日パーティーを行いました。ホワイト・パス&ユーコン鉄道は7月に創立100周年をカークロスで盛大に祝いました。そしてユーコン地域への鉄道営業の再開が発表されました。次の大きなプロジェクトは町の北側の洪水対策でした。空港のプロジェクトともにスキャグウェイの道はすべて舗装されました。クロンダイクでの砂金探しはスキャグウェイの観光の名所となりました。ユーコンは低迷する経済にあえぐ人々を助けるための予算を使うということで、埠頭の計画を断念しました。2001年-2004年- 2001年、市は計画中のアラスカ・ハイウェイ天然ガスパイプラインのため貨物輸送を取り扱う新しい埠頭の建設について検討します。しかし、長い目でみれば社債発行費用を支払うためにはクルーズ船が必要だということで反対にあいました。問題はスキャグウェイの人口は2000年の調査によると862名で、夏にクルーズ船が運べる観光客の数にほぼ等しいいうことと、もし必要となれば現在ある埠頭を改良することでユーコンまでパイプを通すことができるということです。スキャグウェイは9.11事件までは夏場は人気で、よい時代を過ごしていましたが、東海岸で同時多発テロが起こった後数日はすべての交通機関がストップしました。しかし、船と飛行機は元通りに営業開始し、2002年には以前より多くの観光客が訪れるようになりました。民主党の上院議員、フランク・ムコウスキーが知事に選出され、ジュノーからスキャグウェイの道路建設が公言されました。彼は環境影響表明書に対する取り組みを再び開始しました。2003年、ホワイト・パス&ユーコン鉄道はより多くの大型客船を取り扱うことができるように鉄道用埠頭を増設しました。しかし、鉱石用埠頭の腐食が危険と判断され、州により取り壊されることが決定され、スキャグウェイの産業は打撃を受けます。しかし、市は将来的にまた利用する可能性があるとのことで、保存することを提案します。もしユーコンで再び鉱山産業が発展することがあればまた鉱石用のターミナルが利用されるかもしれません。スキャグウェイの住人は衛星放送、インターネット、携帯電話でイラク戦争の動向を見守りました。
2004年となり、道路計画に賛成だという意見がある一方で、市は断固として、ジュノー・アクセスを充実させるにはフェリーをもっと援助することが必要だとしています。道路対フェリーについての環境影響表明書に関する最終的な結論は州の高速フェリー、フェアウェザー号がリン運河とジュノー、シトカ間を2004年夏に航行し始めた後に発表されるでしょう。「ビッグ・ホワイト」の撮影班が町にやってきて、スキャグウェイは冬の苦痛から救済されます。ロビン・ウィリアムスが町中をバイクで走り回り、ホリー・ハンターがバーのベルを鳴らすなど、映画スターがスキャグウェイの町にぴったりとはまっていました。地元の人たちが言うように彼らは自分たちのことをスキャグウェイジアンと呼んでいました。
Compiled and edited by Jeff Brady, updated
from original published in January 2000 New Year's edition of
The Skagway News.
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